連載
ドゥドゥニスト宣言
アフリカを愛したある旅人の歴史
vol.14 ドゥドゥ・ワールド誕生
《効率・要領》を金科玉条の一つの如く教育され・信奉し・生きてた私世代が、アフリカ大陸に足を踏み入れると、あらゆるロスやムダが目に付き、無闇にイライラする事も多い。やがて現地流の動き方や生き方を容認・理解し、《いい加減さ》が心地良くなる頃になると、無駄が意味を持ち始め、旅先でのムダ、人生での道草が貴重になってくる。そして、もっともっと大きなムダをしたくなる。
アルジェー市内の安宿から通勤するかのように、バスでのガレージ通いが日課になった。
一日も早く修理して欲しい!とメカニック達へお願いする気持ちとガレージ側へのプレッシャーを懸けているつもりが、混淆していた。が多分に、自分への気休めも多い。
ピストン・リング等のパーツは、ロンドンからアルジェーの日本大使館気付で送ってもらったが、通関が難しく長期戦になりそうだった。已む無く再度買い直し、対岸のマルセーユ〈フランス〉へ再送してもらい荷物(部品)を引き取りに、アルジェーから一人で飛んだ。
我々の焦る気持ちとは裏腹に、メカニック達の仕事ぶりは変わらず、ガレージ側のスケジュールで事は進み、分解されたエンジンが再生し・積まれ、やっと走れる体制になったのは、ほぼ1ヶ月後だった。
新車時と同じように、ボーリング後はエンジンの馴らし運転が当時の常識だが、時間が惜しいので走りながらの馴らし走行にし、この先のガルダイヤ支店で再調整やボルト・ナット類の増し締めをする事にした。心理的に少しでも早くアルジェーを出たかった。この時期のアルジェーは、冬の地中海性気候の所為もあり、雨勝ちで陰鬱な印象が記憶に残っている。時間と金銭的に多少余裕のある3人が、後発隊に残ってくれ、総勢4人、1台での再スタートだった。
先発隊と同じルートを走る・追いかける。先発隊グループの名残りが、道すがらの数少ないバーやレストラン、雑貨屋、キャンプ場にも散見される。が、1ヶ月の差は、いかにも大きい。しかも手負いのランド・ローバーは、途中で後輪の駆動シャフトも折れ、修理にも手間取ってしまい、とうとう最後のナイロビまで追いつく事は適わなかった。先発のTさんも、かなりゆっくりペースで走ってくれていたようだが・・・。
ザイールは昨年同様に国境を閉鎖中だったが、前回は諦めた中央アフリカ~スーダン・ルートを取り、スーダン南部からは山岳部を越え、ケニアのトルカナ湖に下っていった。
目的地のナイロビが近づくにつれ、一人で走りこんで来た時と同様かそれ以上の気持ちの高ぶりは、抑えられなかった。着いた!という到達感と終わってしまう!と言う虚脱感が交錯していた。
主催者側をも巻き込んだ参加者間同士の軋轢や脱離は避けられなかったが、ともあれ《アフリカー100》パートIIのトランスポート業としての責任(ヨーロッパ~ナイロビ間を運ぶ)は、先発も後発隊も今回は果たせた。私とTさんの手元には、何とか走れそうな中古のランド・ローバー3台が残った。そしてボランティア・スタッフとして参加し、ケニアに残っているEさんを含めた3名で、何がこの地で出来るのか・・・。
パート3を実施しようと言う話は、さすがにどちらからも出て来ず、逆にケニアをベースにした小旅行が出来ないか(いわゆるサファリ)?我々がしてきたようなキャンプ旅行を商品化出来ないか?日本人がもっと簡単にアフリカに来れるようにならないか?ビジネスになる可能性は?などを、タスカを飲みながらの話題にし、煮詰めていくひと時になった。残念だがTさんは、本業の建築の世界に戻る事になった。ただEと私は、ケニアに住み着きたかった。仕事も欲しかった。
《雇われるより、会社と仕事を作ろう》単純な発想で、当時では珍しいキャンプやサファリを主とした会社を登記した。1976年、ドゥドゥ・ワールドの誕生であった。登記申請時には社名を、DUDU WORLD としたが、担当官が、DO DO と間違えて記載しているのを、手続き終了後に発見したが既に手遅れ・・・。まー・いいかっ!で現在に至っている。