連載

vol.13 解散宣言。そして、再び

《塞翁が馬》の故事では無いが、人間の幸・不幸は、長いタームを経ないと解らない。《旅》の運・不運も旅を終えてみないと評価出来ない。しかも《旅》の面白さ!を突き詰めると、不運な旅?ほど印象深かったり、濃密な記憶が身体の奥に残ったりしている。何をもって《不運》とするかは、各人の容量、《旅・心のキャパシティ》に拠るものが、大きい。

《これより先には、進むな! 君たちの安全を保証出来ない。コンゴ領内に引き返す事を、お願いする》命令的な隊長のお願いだった。最悪、身包み剥がされる事を覚悟していたので、少しほっとしながら、力みも抜けた。
当時のアンゴラは、ポルトガルからの独立前だったが、ともに独立を目指し・戦った三派同士が、ほぼ内戦状態に陥ろうとしていた。独立後の政権を担うのがMPLA(アンゴラ人民開放戦線、ソ連・キューバが援助)主体の政府だが、反対勢力のUNITA(南アの白人政権、米国が背後に)、FNLA(アンゴラ国民開放戦線、中国が後押し)の三派が入り乱れ、豊富な地下資源狙いの大国の代理戦争に突入寸前であった。

《この先、FNLAの支配地域が一部あり、君たちは中国人と間違えられ、戦闘に巻き込まれる惧れがある》と言うのが、MPLA側として安全を保証出来ない理由だった。
『あー、旅は終わったな!』行き場の無い敗北感が頭を占める。彼らに再び国境までの舗装道を護衛されながら、ぼんやり気分でハンドルを握っていた。

 コンゴ首都のブラザヴィルに辿り着き、残念ながら《アフリカー100》の、解散宣言をする。日本を出発後、5ヶ月になっていた。再度、天理教教会の方々のお世話になりながら、メンバーの帰国手配、車輌、衣類、キャンプ用具を含めた売却等の残務処理作戦に没頭する。車輌には、フランス語で《売りモノ・電話番号》の張り紙をし、目抜き通りに駐車しておく。市内の【市場】の隅に勝手に売り場を設け、俄商人にもなった。売り手の立場から、コンゴ人を見ると、買い手としても、タフな人達だ。が、憎めない人達でもあった。じっくりと品物を手に取り、点検し、傷や汚れ、破損箇所を見つけ、徹底的に値切ってくる・・・。

 解散処理をしながら、ムクムクと挑戦する気概も湧いてきた。パートナーのTさんと、確認する。《このままでは、終われないな!》
かくして夢を捨てきれない二人の『アフリカー100 パート2』への挑戦が、懲りもなく始まる。ケニアで心身の休息をした後に、参加者を求めて日本へ戻って来た。1975年9月だった。1回目の学習効果?で、トラブルの素になった食事代を抜きにした旅行費用を設定、団員は、1回目の参加を満員で断った人達を中心に呼びかけ、結成した。30歳代が中心メンバーだが、自営業の50歳近い方が、今回の長老になった。クルーも含めた男女比は、ほぼ半分ずつ。

 ロンドンでの準備にも前回の経験が役に立ったが、車輌選びは、ぶっつけ本番、市場に出回る中古車との出会いに期待するしかない。が、2回目もベストな車輌体制にならず。3台の内、1台のモデルは、6気筒のランド・ローバーを掴んでしまった。やはり、時間に負けたようだ。この継子扱いの6気筒車を、私が担当することになったが、後のトラブル・メーカーになっていった。

 食事代は、皆で食費としてのプール金制にする。参加者の有志に会計になってもらい、その中から食事代を出す事にした。食事に贅沢をするのも自由だが、プール金は、早く減る事になる。トラブルの芽や素は、経験から極力摘み取ったつもりでいたが、団体・共同生活のグループ内では、理想としている《和気あいあい》の旅にするには、遠いようだと旅が始まって再度、実感させられる。生活や育った環境の違い、職業や経歴により各自が違う主張や観点を持つのは当然、違いを違いとしてお互いに受け入れ、尊重し、自己主張し、我慢するところは、我慢をする・・・。こんな共同体を夢見るのは、まだまだ、自分が青臭いんだな。

 アルジェー近くになり、私の6気筒車が、突然のエンスト。原因不明で焼きついた。アルジェリア内には、多くのランドローバーが走っているので、部品の入手は気にしていなかったが、ガレージの話を聞き愕然とする。アルジェリア国内には、6気筒モデルは、無い。交換部品も無い。慌ててロンドンの知人に電話をし、パーツの有無と料金のチェックを依頼、ガレージが、エンジンをバラすのを待つが、何れにしてもこの国の仕事振りをみると長期戦になりそうだ。Tさんと相談の上、已む無く二隊に分け、Tさんに2台の先発を依頼し、私は単独で追いかけ、途中で追いつく事にした。

written by 道祖神|熊澤 房弘

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