連載
ドゥドゥニスト宣言
アフリカを愛したある旅人の歴史
vol.06 FOR SALE
古いビートルに欧米の旅行者数人を乗せてキャンプ場に現われたのが日本人Tさんとの出会いだった。
1974年当時、ナイロビ市北部にあるシティパーク内には、指定のキャンプ場があった。
北から・南から、更には西からの殆どの自動車旅行者、キャンパーやバックパッカーなどの溜まり場であり、外部に対しての治安は、それなりに保たれていた。
私も長期滞在を覚悟して、その狭い一角を占有していた。
ナイロビ在住の彼の家には、あらゆる国籍の旅人が、紹介や人伝に聞いたのか勝手に出入りしていた。
一宿一飯もいれば、長逗留組やアルバイトをしている奴もいた。
私も程なく、その家の食客になったが、自分流の旅としてタダは由としないので、スペース応分の宿代と経費は、払わせてもらった。
いつものようにTさんや何人かで飲んでいる時に、突然その話が出てきた。
旅人として前に進まねば‥という焦りとこの地に留まりたい‥という気持ちが行きつ戻りつしていた頃だ。
英国の会社が運営しているヨーロッパからナイロビまでのトラックによる縦断旅行のようなモノを、日本人を募集してやれないか!というのが発端だ。
車による縦断経験者は、その場では私のみだったが、《やれるだろう》の答えと具体案をイメージしている自分がいた。
アフリカの地に係わりを持つ理由ができたことが、何よりも前向きにさせた原因かもしれない。
※ ※ ※
3年近く連れ添った愛車に「売ります」(FOR SALE)のチラシを貼り、市内の目抜き(ケニャッタ・アヴェニュー)に駐車し、客(買い手)を待つことから縦断旅行作戦は開始された。
新聞にも広告を出した。英国隊と同じトラックを使おうと考え、Tさんを中心にケニア内での車輌探しと乗り回しが知りたく試乗作戦も進めた。
愛車が準備資金に変わった段階で、ロンドンに飛んだ。
英国での車輌購入方法と幾らで買えるのか?とともに、大まかな必要経費を基に、幾らで募集すれば良いのか?その方法は?・・など決めねばならない課題も多い。
自分なりにドラフトを描き実現の可能性が無いようなら、ケニアに戻らず、そのまま米国への旅に行くというTさんとの口約束の後の英国入りだった。
4x4の特殊なトラックは、軍の払い下げ車輌を再生新車風に仕上げるもので、半年以上の準備期間なり、事前オーダーが必要なことが解ってきた。
では、4x4(当時は、ランド・ローバー車が主流)数台の編成にした場合は?などとシュミレーションを繰り返した。
この計画に興味を持つ有料?(金を払って参加する)スタッフ&ドライバー1名と無料で旅行に参加できるのが特典のメカニック1名の人探しを、Tさんに依頼し、ロンドンや近郊での装備の購入先や出発前の整備するガレージ何軒かのリスト作りを終えて、ケニアに戻った。
※ ※ ※
腹案では、ランドローバー3台、ドライバー3名(私、Tさん、Xさん)+メカニック1名、隊員として10名を募集する予算組みにした。
上手くいけば、半年分位のナイロビでの家賃が浮く、そしてタダでもう1回旅ができる‥位の胸算用だった。
何よりも、日本では初の民間募集による縦断隊を組織してみたかった。アフリカを紹介したかった、日本人にアフリカを見て欲しい…、体験して欲しいという気持ちが勝っていた。
ナイロビでの仕事を切り上げようと考えていたKさんが有料ドライバーに、モンバサ生れの英国系のイアンがメカニックに決まり、ナイロビでの最終打ち合わせの後、ほぼ3年ぶりに日本に向かうことになった。
今までの放浪の余韻も、のんびりモードに浸る間もなく、3年ぶりでの日本での《旅》が始まった。
爾来30年近くにもなるが、この時の感触を今でも残している。旅の途中、中断状態で戻ってきたために、未だ日本を《旅》していると心の片隅で思い続けている自分がいる。
そしていつの日か再び旅に出る日をイメージしている自分がいる。
仕事がある地に住み、自分を必要とする世界があれば、そこが自分の住処で良いと考えている。
《旅するように暮らし、住むように旅をする!》というようなコピーがあったが、ほぼそれに近い。
ともあれ、目的を持つと忙しくなる。しかも、仮に決めた出発日まで2ヶ月しか時間が無い。
正味1ヶ月少しで、何の保証も無いアフリカ旅行に参加してくれる人を集めることができるのだろうか?