連載
ドゥドゥニスト宣言
アフリカを愛したある旅人の歴史
vol.05 鬼門
閑散としたマラウイの国境で立ち往生となった。
今回ばかりは、ラチが明かない。押したり・引いたり・ナンだ・カンだ小一時間、この間誰も国境通過者は、いない。
うす暗くなり、国境が閉まる頃になってきた。あの手・この手も通じず、相手は入国を認めてくれない。あげく「嫌なら、タンザニアに引き返せ」と言うような態度をしてきた。
旧フランス圏アフリカ諸国と旧大英帝国アフリカ諸国との為政の違いも、肌で感じさせられた。英国風の杓子定規を手ごわく感じてくる。どうしてこの国は・ここの役人は、規則一点張りなんだ・・・。
マラウイに入国し、南アフリカ領事館でヴィザを取らない限り、この先、前進ができない。止む無く妥協する覚悟を固めるが、このままでは悔しいので言ってみた。
「解った、じゃーどうしたら良いんだ。挟みも持って無いし、一人では髪も切れないよなー」
…こんな所に散髪鋏もバリカンも、ありはしないだろう‥との思惑と魂胆があった。この言葉を待っていたように、イミグレーション裏の小屋に招かれた。
特設の、国境床屋の始まりだ。先ほどの役人が、嬉々として(そのように見えた!)鋏と汚れた白布のカバーを持ってきた…。
付言すると、1974年当時のマラウイは、男性の長髪禁止の他、女性のパンツ(ズボン)姿も禁じていた。女性の旅行者は、長い布地を腰に巻いたドレッシー?なファッションで旅行をしていた。
※ ※ ※
在マラウイ南アフリカ領事館(ブランタイアにあった)には、頻繁に顔を出した。
日本人は、当時、「名誉白人」扱いになっていたが、それでもヴィザは、本国照会になり1ヶ月以上は、かかると言われ、申請書類を速達で遣り取りするエキスプレス仕上げ?をお願いしておいた。
申請条件に必要な資金(見せ金)もあるし、断られる訳は無いと高を括っていた。領事館通いの合間に、狭いマラウイ国内を旅していた。
顔馴染みになったヴィザ担当の職員が、《SORRY!》と済まなそうに書類を持ってきた。ほぼ申請1ヶ月後の恒例訪問の朝にだ。
一番上の書類の解りづらい言い回しの英文の中に、貴方を受け入れることができない‥旨の文字が浮かんでいた。
《どうしてだ! 何故なんだ?》 『貴方が、空路で入国するのなら、歓迎するし、大都市のみを旅行するのならヴィザは出せます。
但し、今回のように車で地方を旅行するとなると、いかに貴方が白人扱いであっても、トラブルは避けられないと思う。そのうえ我が国も、貴方の安全に責任が持てない。』と、噛み砕くように職員は要旨を説明してくれた。
丁重なお断りであった。
今まで多くのトラブルはあったが、何とか時間はかかっても目的は達していた。
どうもマラウイは、鬼門のようだ。どういう形で旅を続行するか? どこでブラジルへの船を探すか? 旅をしながら考えよう!と隣国のザンビアへ急いで逃げ出した。
更に南のローデシア(現ジンバブエ)に入り、再度、南アフリカのヴィザ申請にトライするか?
モザンビークに入りブラジル行きの船を探すか?
ナイロビに戻りモンバサからの船を探すか?
‥幾つかあった選択肢の中で、取り敢えずのケニア行きを選ぶ。ザンビア内を、ウジウジと何がしかの挫折感を抱えながらの、1ヶ月近く旅をしながらの結論だった。
ケニアからどういう形で旅を続けるか?
北上してエジプトに行くか?
愛車を売ってアメリカに飛ぶか?
モンバサからインドに渡るか?
気持ちの整理をつけるため、あらゆる選択肢を拡げては、畳んでいた。
妙な事に南アフリカに拒否されたおかげで、《アフリカ去りがたし》の気分が、腹の底で日々に強くなっていった。理由は、解らない。
そんな悶々・鬱々としている時に、その男に出会った。
※ ※ ※
余談だが、思いがけずアフリカ旅行を専門に扱う旅行業者になってしまったが、開業後、13年間近くは、いかにアフリカ大陸内であっても、私自身が南アフリカ旅行を取り扱うことは、しなかった。
頼まれても行くものか!と思っていた。
お客様と初期の頃、ボツワナ旅行をした際も、便利な南アフリカ・ルートで行かず、わざわざザンビア経由にしたこともある。(当時のお客様に感謝します。)
人生に《もし》は無いが、当時の南アフリカがすんなりと私を受け入れていたら、あのままケープタウンからブラジルに渡ることが成功していたら…と想像すると、別のドゥドゥイストが、生まれていたかもしれない。