連載

vol.02 ミシュラン製のアフリカ地図

事の発端はリスボンだった。路上駐車中に車のガラスが破られ、自動車のパスポートともいうべきカルネ、住所録、旅行記録、レター、資料や地図類、そしてミシュランのアフリカ地図などが入っていたアタッシュ・ケースを盗まれてしまったのだ。人の目につく所に、金目の物がありそうな入れ物を放置しておいた不注意によるものだった。

カルネ無しでは、アフリカ大陸内の自動車での入出国が難しい。その再発行に全力を傾注した。日本の友人を動員したり、ポルトガル自動車協会やJAF(日本自動車連盟)の多大な協力も得た。それでも新しいカルネを入手するのに約1ヶ月を要した。

ミシュランとは、ご存知のようにフランスの自動車タイヤ・メーカーだが、フランスはもとより、ヨーロッパ内の地図やガイド・ブックの発行でもその内容に定評がある。最近ではレストランの格付け本でもよく知られている。
アフリカ大陸を旅行する者(特に自動車旅行者)にとってミシュラン製のアフリカ地図(三分図)は、当時でも欠かせない物の一つになっていた。

再発行されるカルネを入手するまでの1ヶ月を、ポルトガルやスペイン南部でいらいらしながら潰していた。本屋が目につけば、必ずチェックしたが、欲しいモノは置いてなかった。な〜に大陸に入れば自国のことなのだから、ミシュラン位あるだろうという軽い気持ちでのジブラルタル海峡越えだった。

きちんとした新品のミシュランを入手したのは、3ヶ月後のケニア・ナイロビだった。行く先々、キャンプ場で出会う旅行者等に地図を見せてもらい、コピーをし、何とか凌いで旅を続けた。
現在、アフリカ内において自国の地図(例えば、ナイロビでケニアの地図)の入手はかなり容易になったが、それでも現地で満足のいく地図の入手は、難しい国々が多い。

無知というのは、呑気なものだ。まともな地図も持たず、アフリカに対しての知識は皆無に等しく、何故アフリカに?!と、問われるたびに、自分自身にその質問を反芻していた。たいした主義・主張があるわけでなく、俗にいう冒険とは違うし、そんな度胸も無い。命を賭けるというほど、大げさなものでも無い。大きなモノに挑み、跳ね返され、マゴマゴすれば自分が打ちのめされる…。ただ、ただ全力でぶつかる相手が欲しく、真剣勝負の旅がしたくなり、世界の国々を、白紙のアフリカを選んだだけである。
こんな不遜な旅行者にも、アフリカは懐が広かった。暖かったし、冷たくもあった。大自然には鼻もひっかけられなかった。手ごわい相手だった。

アルジェリアからのサハラの中にたった一人、星も月も無い夜が時折あった。真黒の闇というものを、初めて実感した。一人で眠る砂漠では、初めの頃は、風のうなりにもびくついた。全くの音の無い空間には、自分の立つ位置があやしくなり、存在感さえおぼつかなく、気持ちが漂い続けた。
砂嵐に立ちすくみ、走ってきた轍が見る間に消え、流れていった。タイヤを襲った風が砂をかぶせていく様は、為す術も無い己の小さを知らされ、ただボーっと見ているだけだった。その後になって、砂の凄みをじわじわと気づかされた…。

様々な人々との触れ合いのなかでも、地元っ子との出会いは、アジアやヨーロッパとは違ったときめきを感じさせた。見栄も、特に身構える必要の無い人々の輪があった。友人はもちろん、知人も、知らない人にも、挨拶しまくる人々、他人がすーっと入っていける世界が拡がっていた。
握手した途端に、お土産をネダる人々、すぐ解るような嘘を真剣に、声高に話す人々も、住んでいた。新鮮だった。とことん憎めない人たちの社会だった。そして輪郭のないぼやーっとした包容を感じ、アフリカの好い加減さに、少しづつ、馴染んでいった。

【民】の混沌としながらの秩序に比べると、旅行者が頻繁に接触するアフリカの【官】の役人の世界には、腹の立ったことが多い。手続きをわざとゆーっくり処理する出入国のイミグレーション役人、荷物・所持品や車輌を、じっくりと検査する振りをする税関吏等の意地悪や強請りに対しては、小銭や土産で解決するのを好まなかった。
通行量の少ない陸路の国境で、半日以上も遮断機(?)の前で立ち往生したことは、再三だった。【官】の横暴さ、権力を笠に着た態度には、何かしらムカムカしたものが先に来て、スマイルを押し通せない自分がいた。
そして、二度とアフリカなんかに来るものか! と吠える自分がいた。

written by 道祖神|熊澤 房弘

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