連載
ドゥドゥニスト宣言
アフリカを愛したある旅人の歴史
vol.01 はじまり
《旅》にも流行があり、時代によって旅の手段や方法、果ては動き方まで変わってくる。私は海外旅行が今ほど一般的でなかった1960年代後半の若者(だった!)が、当時を思い返せば、〈国内旅はユースホステル〉を利用しながらの「カニ族」スタイルが主流のひとつであった。
どういうわけか、《旅》に入れ込み、点より線、線より面の《旅》がしたい!《旅》では何でも良いから自分の足をもつ! という独りよがりのこだわりから、上野の専門店街でヤマハの中古バイクを買って〈国内旅〉に出た。今でいえばツーリングのはしりである。
現実はそんなに格好の良いものではなかった。
無鉄砲なツーリングの《旅》では、悪路や砂利道のカーブで何度となくコケ、打ち身、擦り傷だらけになったり、装備不十分な雨具でパンツまでグッショリ濡れるという日も多かった。
この頃、バイク旅行者はまだ少なかった。行く先々で、地元の人々から一宿一飯、お弁当、さらには小遣いまでいただいてしまうような応援や励ましには心底、身に染みた。己のために遊んでいるのに過ぎないのに、と後ろめたい気持ちになることも度々だった。
二ヶ月程の《旅》だったが、教室で学ぶことよりも多くの何かを得たような気がする。結局、この《旅》の味が忘れられず次の旅立ちにつながっていった。
1964年、日本人の海外旅行が自由化になった。〈海外旅〉はまだ夢の時代であり、高嶺の花だった。しかし、輸出の増大、貿易収支の改善、経済力の上昇につれ、外貨持ち出し限度額も増えて、大阪万博に沸いた70年には千米ドル(1米ドル360円の固定レートの時代)になった。
ようやく自分にも〈海外旅〉が現実に近づいてきたと思ったことを憶えている。
当時の海外への旅立ちは、憧れの、晴れの門出のはずなのに、ある種の陽気な悲壮感をともなっていた。手を振って送る側も、送られる者にも。
旅行先の知識も少なく、情報もない時代には、海外に「飛び込む」という意識と気負いが、そうさせたのかも知れない。このように感じていたのは自分だけだろうか。この手の気負いは、シベリア・ルートで横浜から船立ちする人や、私のように片道切符で出かける者には特に多いような気がした。
そこでも私は、《旅》には自分の足が必要だというこだわりと、それを飽くまで貫こうとする意地から車で〈海外旅〉に出ることにした。台所事情を知らない人から見れば、贅沢な旅人にみえたかも知れないが、資産家のぼんぼんでもなく、金持ちでアブク銭が入ったわけでもない。借金を重ねたあげくの僥倖だった。
車の旅は、確かに線と面の旅ではあるが、それなりのエナジーと苦労と神経を費やす。窓を閉め切ってしまうと、移動中は遮断された囲いのなかである。しかも一人旅では、話す相手もいない。人恋しさに町外れでヒッチ・ハイカーを拾うことは、再三だった。地元の移動者もいれば、長い漂泊 の旅人(たびにん)とも遭遇した。
旅人たちからは、旅する国々や人々の印象を挨拶代わりと情報収集で訊いたもの。ところが、何処で誰にタダ飯とタダ宿にありついた、何を貰ったなどの次元で、いかにカネを使わずに旅をしているか等々の自慢話ばかりで、それらを基準に、この国は良い、悪い、親切だ、いや人情が薄い等々の手前勝手な評価、判断は聞くに堪えず、ついてもいけなかった。失望というか落胆することが多かった。
自分とて予算がありあまっているわけではない。たとえケチな旅行者としても、旅先に知らぬうちに迷惑をかける以上、相手の人情や親切だけを当てにするな、最低限の出費(食べる、寝る、見る)くらいは義務だ! と言い聞かせていた。自分の流儀を人に押しつける気はないものの、何がしかのカネを地元に落とすのが旅行者たる所以ではないか、という私の持論と意識の違いが、旅人たちと衝突する原因だったのだろう。
ヨーロッパを走り回り、ジブラルタルを渡る頃には、地元の移動者以外のヒッチ・ハイカーらしき旅人を遠ざけるようになっていた。
最初にヨーロッパに入った年に資金づくりに失敗(要するにバイト先で雇用主と意見が衝突し、何度となく首になったのが原因)し、アフリカ入りは予定より、まる一年遅れていた。準備万端のはずが、水、ガソリン類のつぎに大事な(?)ミシュランのアフリカ地図をもたずにサハラへ入る羽目になってしまった。